自分語り2021
去年(自分語り2020 - 海底撈月)に引き続き、自分語りをテーマに書き連ねようと思います。
去年の記事は、再読に堪えないものだったので読み返したくないし、特に続き物として意識していませんが、通して読むと何かしらの筋が見えるかもしれません。
私はどのように自分語りをすればいいか、どのような文章が自分語りとして受け止められるか、正直のところピンとくるものがありません。
自分にまつわる過去にあったエピソード、来歴、設定などを書き連ねて自分を説明した文章はなんだか違う気がします。(自分語りとして相応しい文章があるとか、そういう話をしたいのではなく、私にとって何が自分語りに能うのか探るためにこれを書いていることは一つ言い加えておきます。)
相応しさをまとわせて虚実織り交ぜる、自分も他人も殺さないコミュニケーション法を学習する前に脳が壊された結果、違和感に対しての感度が下がりそのことについて考えを深めて他者と共有するということが苦手であるというのが関係しているかもしれません。(これは最近身内周りの人間を観察して思ったことですが、徐々に学習しつつあります。)
そのような日常会話の水位から考えると、他者に自分の”感じ”を説明するのが難しかったり、あまり関心がないことに繋がるような気がしますし、それは私の在り様を構成するものの一つであるでしょう。実際私は日常会話で比喩や引用を頻繁に使いますし、日記の描写も景色や動作の説明に終始しています。
短絡的ですが一旦、「自分語りの困難(わからなさ)」を「”感じ”の説明の困難」として書き進めてみます。
通常、(通常?)”自分”って直感できるものなんでしょうか。
”感じ”の説明を束ねたものとして立ち上がるような気がします。
”感じ”の説明をしようとする時はじめて不自由さが理解でき、少なくとも”ではない”ことが出てくるからです。
”ではない”ことの集積の先に”自分”があるのだという直感があります。
ということで来年は”感じ”に説明をつけていくことを頑張ろうと思います。
ちょっと文をまとめることに不慣れで去年に続きとりとめない文章ですが、ご容赦ください。ありがとうございました。