海底撈月

手遊び

自分語り2020

本投稿はサークルクラッシュ同好会Advent calendar20日目の記事になります。

adventar.org

内外の刺激に対し、語ること、あるいは沈黙することがあるとすれば、それは例えばいかなる時だろうか。
 
 なんだかいきなり深遠そうな問いを起してしまったけど現実やネット上で何かを言い淀んでしまうことと「自分語り」に直面しての喉が詰まるような感覚の話を、締め切りまでの時間に青くなりながら、つらつら絞り出していくのみになります。現在は20日の朝。思いつきが書き殴られた切れっ端たちではとうとう始末がつけられない、困ったものだ。
まあ太字の表題へ答えるとしたら「自他に<私>を要請された時」とかですかね。曖昧。
 
 
 「私を対象に語ること」と「私以外を対象に語ること」、「自分語り」と「非自分語り」。
「語り」に前提される主体としての私、ただその場に在ることや語ることに付随し、”語られてしまう”私。
語られるか否か、他者の内面において何らかの解釈・評価・判断を下される。他者を自明とし相補的に規定されずには存在できない<私>はどうすれば良いのか。何をどう語ればよいのか。
 
 他者の内面のそれが対人関係の中でどう働くのか全く不可視というところが問題だ。どういう所でどういう振る舞いをすれば人と関係が結ばれるのでしょうか。わからない。
私が認知され要請される場に身を置く、というところまではなんとなくわかる。自ら責任を引き受けに行くというのが大事なんだろうか。今の私は、仕方無しに在るのだから仕方無いじゃないか、と無責任で受動的な態度でいる。(一丁前に政治性を意識したり誠実にありたいと思って動くことはあるが)
 どの責任を引き受けるか、どの私で在ることができるのか、そういった選択や熟慮すらも_
 
 主体が未来予測や行動決定に用いる無数の変項とか命題とか呼ばれるものたちは主体の認知能力に制約を受けるし現実はあまりにも混沌だからあまり深く考えてドツボにハマらんようにしたいですね。と雑なオチをつけて終わります。あまり気負わずにやれることを積み重ねて変容していきたい。
 
 まとまりのない文章をカレンダーに刻み込んでしまい痛切極まりないですがご勘弁ください。
みなさん、2021年も何とか。
 
19日を担当した中田瑠美さんの記事と21日担当の さんの記事も是非に。